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隣屋「さんぜん」観劇レポート

  • 得地弘基
  • 2025年12月25日
  • 読了時間: 4分

2025年12月25日

執筆:得地弘基(お布団)



藤沢という場所をアジカンの歌でしか知らなかったので、ここがあの藤沢か〜と思いながら、電車に乗って、会場の、藤沢にある、フジサワ名店ビルの屋上にむかった。

ビルの中は、一階に雰囲気のいい、むかし風のままの喫茶店があって、パフェを食べる制服を着た学生や、お喋りするおじさんおばさんたちでにぎわっていた。


上演が行われる屋上に出ると、名店ビルより背の高い建物の、さびついた色になった手すりや何らかの機械とか、大きな看板のそばで、煙を上げる排気口があり、日が沈む西側には手すりの向こうに、街があって、その向こうに少しかすんだ富士山のシルエットがそれでも、きれいに見えていた。


劇は夕暮れの少し前からはじまる。


「さんぜん」は、大きく分けて、地球(俳優たちがグミみたいに光っててぽにょぽにょした地球の被り物を被って演じる)が自分の成り立ち、そのあとの生命の進化や絶滅、人間の辿った歴史について語るパートと、弟を探しているという人物がいろんな人に弟を尋ねる(けど誰も弟のことは知らない)パート、と、その2つのどちらでもない台詞で出来ている。


これらのパートが、3人の俳優たちによって、役柄を交換し、断片的に行き来しながら、進行していく。

捜している弟は見つからない。でも捜している人は毎回違うようで、その弟についての情報も、外見や仕草(笑うと目がこうなるんです、と顔を真似していた)の他のエピソードは、職業が違っていたりして、捜している兄だか姉だかを演じる俳優も変わっていくので、時代も違うように感じた。


地球や人類といった大きなスケールの時間と、弟を探す人と出会う人たちのヒトのスケールの時間が、屋上のうえで混ざり合う。


出会う人々は、大事なものを失ってしまったことに気づいて泣いているおじさん(サラリーマン?)から、謎の老作家、過去を育てている畑の人(?)など、不思議で、おかしみがあり、でも、どことなく物悲しい。


ちょっと正直なところ、座った席だと風と室外機の音で聞こえないとこもあったのだけど、劇全体が夕焼けになっていく舞台(というか、世界)のなかで、もう、一部は掠れて読めなくなった記憶の石板から、イメージを再生しているような、日頃見る舞台のスケールの見方ではないような、感覚があった。


もちろん屋上なので、僕の席からは街並みが見え、光る看板や、駅前を歩く人々が小さく見えていし、台詞の最中にすぐそばにちいさな鳥が降りてきて、もっと高くを鳥の群れが飛んでいくのが見えた。


いろんな尺度のものが一つになってそこにあり、それは、僕がこうやって劇を見ているその視界⋯⋯僕という思考の枠の外には「世界」があり、僕じゃない時間がある、ということを僕に自然に感じさせた。


劇は僕の時間と違う時間を同じ空間で接続する。


観客が、意識はしなくとも、この俳優はこの役本人ではないし、この時間だけ演じられているんだなと言うことが分かるから、それは劇になる。観客は、劇の前と後があるということを無意識に自覚している。


その差異がないと演じることにはならないし、演劇にはならない。


だから、逆に「さんぜん」は客席の私たちを通して、そのほかの時間と接続する。

劇にとっては私たちが世界と唯一の窓口なのだ。


その灯火が、舞台の上には、ランタンの光となって吊るされている。あの光は私たちの光で、光を見ている誰かがいると信じるための灯火だ。


その夕暮れまでのひと時、フジサワ名店ビルの屋上では、その双方向の時間・空間の関係性が、露出し、冬の風にさらされ、日暮れにさらされている。


その脆弱なつながりは、演劇そのものの脆弱さでもあり、僕たちがつくる虚構という概念の脆弱さでもあるけど、同時に、それを確かに共有しているという温かさでもあった。


そしてちょうど日暮れの頃と共に訪れる終演はそれを失わせ、それぞれの時間に返す。


それはその脆弱な、温かさの死でもあるけど、失われたことで、はじめて、私たちはそれが温かかったということ、さんぜんと、ひかっていたということに気付く。





🛌お布団サイト😴



隣屋『さんぜん』(2025)詳細

 
 
 

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